
認識論とは何か 第四章
以上述べた真理の観念は、主として理論的認識に即した真理、即ち理論的な真理、を中心とするのであった。普遍の範囲に於て理解された認識論ならば、真理をそういうものに制限するのも無理からぬことだ。だが真理をわざわざそういうものに限定することは、この観念を日常活用されている常識語から絶縁して使うことを意味する。それはアカデミックな用語としては一応の役に立っても、現実の言葉としては一つの抽象物でしかない。真理は決して単に理論的なものには限らぬ。芸術的真理や道徳的真理、更に宗教的真理というものさえ、考えられなくはない。真理を真実と呼び直せば、この点おのずから明らかだろう。
真理を理論的なものに制限して考察することは、つまりごく普通の学術的惰性に従った意味に於ける論理に之を限定することだ。論理学というものは比較的内容が一定したものとも考えられるが(例えば学校論理学のように)、併し理論となると必ずしも一定した規定を世間では与え得ない。強いて云えば、考えの道筋というようなことを論理と呼んでいる。日本語としてはそうだ。欧米語としては言葉の上では論理と論理学との区別はないので、特に論理そのものを研究対象とするらしく響く論理学なるものを云い表わす為には、別に「論理の科学」と呼んだ方が紛わしくないのだが、そう呼ばない限り、論理も論理学も同じ言葉で云い表わされる。之は単に言葉の区別が足りないのではなくて、却って論理乃至論理学(ロジック)の本性を告げる意義の深い現象なのだが、それは後に触れよう。だがそれにも拘らず、論理と論理学とは区別すれば出来ないのではない。処で、狭義にアカデミックに真理という観念を持ち出すと、それは、論理学的なものではないまでも、少なくとも論理的なものと考えられるのを常とする(但しこの場合の論理学は普通のアカデミックな意味の範囲に於ける夫としてだ)。
併し、真理をこういう論理のものと限定することは、大して重大な意味のあることではなかった。真理の十全な意義は、いつもこうした「論理」をはみ出している。真理は単に論理的であるばかりでなく、心理的でもあるのだ。否時とすると、凡そ論理的ではなくて却って常に心理的なものだと云ってもいい位いである。心理に根を持たない真理は、どこか空に浮いた公式のようなもので、そのままでは真実ではない、真理ではないのである、リアリティーがないとも考えられる。――だから広範な意味に於ける(そしてそれこそが最も日常的に活きた用語になるわけだが)真理は、もはや論理には尽きず、寧ろ心理――サイコロジーなのだ。真理が単に理論的なものに限定され得なかった所以である。
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